日本ケベック学会会長挨拶


 2021年10月9日の総会におきまして、第4代の日本ケベック学会会長を拝命しました。日本ケベック学会は会員100名超という小規模な学会ですが、本学会の活動はその規模を越えて非常に充実しています。それは研究対象の魅力によるのではないかと私は考えています。

 「ケベック」とは何か?それはカナダという国のひとつの州の名前ですが、そこには遥かに大きくて深い含意があります。17世紀初頭のフランス人の植民によって始まったケベックが戦争の結果18世紀中葉に英領となりました。以後二流市民の地位に甘んじながらもフランス語とフランス文化を拠り所として同化を拒否したフランス系は、1960年以降の社会改革により自己主張するようになり、同時に産業化によって多数の移民を受け入れました。それだけでなく、ケベックは先住民から受け継いだ文化を持ち、隣人である米国の強い影響も受けています。 こうした複雑な歴史的経緯により、ケベックでは、フランス、英国、米国の文化、さらには先住民や多様な出自を持つ移民の文化があり、それらが複雑に交じり合い、独特の社会が形成されています。ですから、ケベックは、大多数の住民がフランス語を話すだけではなく、「独自の社会」であるという自負が、その大多数の住民にはあります。ケベックの人の多くはカナダ人である前にケベック人だというアイデンティティを持っているのです。

 ケベックはいくつもの点で人を惹きつける魅力を持っています。この半世紀のケベックの歴史を振り返ると、私たちはエスニシティに基づかない新しいネイションの誕生に立ちあっているようにも思えます。フランス系カナダ人というエスニックなアイデンティティを捨てて、ケベック人というアイデンティティがどのように確立されていったのかを研究するのは非常に興味深いことです。また、ケベックにおけるフランス語の地位確立の動きは、世界各地のマイノリティ言語の権利獲得という動きと繋がります。ケベックの主権獲得運動は、スコットランドやカタルーニャの独立運動に影響を与えました。  文化の面でも、その人口規模からすると信じられないほどの影響を世界に向けて発信しています。モントリオール映画祭やモントリオール・ジャズフェスティバルのようなイベントに加えて、舞台芸術、映画・アニメーション、マルチメディア、音楽などで世界の注目を集めています。シルク・ド・ソレイユもケベックの団体です。あらゆる舞台芸術の演出で世界の注目を集めるロベール・ルパージュ、世界の歌姫セリーヌ・ディオン、若くしてメトロポリタン歌劇場の芸術監督とフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督を務めるヤニック・ネゼ=セガン、卑近なところでは、つい先ごろ行われた第18回ショパン国際ピアノコンクールの優勝者ブルース・シャオユー・リウも前回の同コンクールの準優勝者シャルル・リシャール=アムランもケベック育ちです。文学でも、フランス系だけでなくさまざまな民族的出自のケベックの作家が活躍し、興味深い作品を多数生み出しています。なかでも2019年度の本学会の全国大会にお招きしたダニー・ラフェリエールはハイチ生まれのケベックの作家で、史上2人目のフランス国籍を持たないアカデミー・フランセーズの会員という特筆すべき存在です。そして、高齢にしてなお世界に大きな知的影響を与え続けるチャールズ・テイラーは、カトリックでフランス語系の母とプロテスタントで英語系の父がバイリンガルに育てたケベック人です。寡聞にして私が知らないだけで、他にも何人もの世界的芸術家や文化人がいると思われます。なんという豊饒! そのほかの分野でもケベックには注目すべき点が多数ありますが、とてもここでは触れられません。

 こうした多面的な魅力を備えたケベックを研究する研究者が本学会に集まり、学際的研究に励んでいます。それだけではありません。本学会は設立当初から研究領域をケベックに限定することなく、北米のフランス語圏をも対象としています。ケベック外のカナダや米国ルイジアナ州のフランス語系、カリブ海のハイチやフランス海外県に興味を持つ研究者もおり、さらには、全世界のフランコフォニーをも視野に入れています。

 2008年10月4日に設立された本学会は2年後の2023年に15周年を迎えます。その歩みを振り返ると、早い段階から高い学問的水準にある大会を開催し、年々のテーマも多岐にわたっているのがわかり、学際的学会の面目躍如といった感があります。が、それと同時に、本学会は今、世代交代の時期を迎えているような気もしており、創設期のメンバーから次の世代への橋渡しがこの15周年を機になされ、それを無事成し遂げるのが会長としての私の使命ではないかと思っています。すでにいくつかの15周年企画が提案されていますが、創設期メンバーとより若い世代が協力してその記念すべき年にふさわしい成果をあげ、それを飾ることができればと願っています。


丹羽 卓